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白滝は合気道発祥の地か(07/11/30)

 白滝の宣伝文句のひとつに「合気道 発祥の地」というのがある。それは白滝において開祖と大東流柔術の武田惣角師が出会い、開祖を武に開眼させたことが合気道の発祥とする見解である。白滝が開祖と惣角を結びつけた地であることは確かだし、大東流を修行したことは合気道誕生に多大な影響を与えただろうと思う。しかし、それだけで「発祥」とうたうには疑問が残る。  まず、何を持って発祥というのかが問題である。開祖が生まれたときなのか、初めて武道を修行したときなのか、初めて道場を構えたときなのか、初めて「合気道」という名が生まれたときなのか。合気道が完成したときなのか。

 自分は合気道というものは開祖が生涯を通じて練磨し続けた武道であると思っている。すなわち、開祖が生まれたときに合気道の歴史もまた始まったのである。そう考えるならば、開祖生誕の地・和歌山 田辺が発祥の地である。

 初めて「武」に触れたときとなると、病弱な体を鍛えるために父に教わった相撲だろうか。これも和歌山である。初めて道場に通ったときなら、東京で天神真楊流柔術の門を叩いたというから東京。その後、短期間だが神陰流剣術、大阪で入隊中に柳生流柔術(免許を受ける)と銃剣術、和歌山に戻って講道館柔道、そして白滝で大東流柔術となる。また、自身で道場を構えた後も弟子達を通じて鹿島新当流剣術を稽古している。

 以上の武術の中で、特に合気道に影響を与えたものはどうやら柳生流と大東流であるようだ。開祖は白滝を離れた後、柳生流の武器技と大東流の体術を平行して独自に稽古していたとされる。

 白滝を離れた開祖は京都の綾部へ行き、大本教に入信する。大本の出口王仁三郎聖師に気に入られた開祖は専用の道場を頂いている。初めて道場を構えた場所は綾部。しかし、このときはまだ「合気道」を名乗っていない。

 このとき開祖は自身の武術を「大東流合気術」と名づけた。やっと「合気」という言葉が出てくるが、「合気」とは元々大東流の技法であるから、やはり大東流の影響は大きい。ちなみに、武術名に「合気」を入れるように提案したのは王仁三郎であるという。王仁三郎は精神面で開祖に大変な影響を与えた人物とされ、その影響を受けて綾部での開祖の技は大東流から離れていく。その後、東京に道場を移し、名称も「植芝流合気柔術」、または「植芝流合気武道」と呼ばれるようになる。大本教と出会うことがなければ、開祖の武術に変化はなかった。その意味では綾部も発祥の地となる。

 開祖が自ら「合気道」を名乗るようになったのは戦後からだという。当時、開祖は茨城・岩間にて修行していた。岩間は開祖の最後の修行地ともいうべき場所で、開祖が自ら合気道の神社を建立し「合気道の産屋」と言わせしめた土地である。この岩間で開祖の技は更なる変化を遂げた。

 では、合気道は岩間で完成を見たのか。開祖は死の直前まで稽古を続けた。それは「武」に完成はなく、死ぬまでが修行であるという考えであったと思われる。つまり合気道の完成に最も近かった土地が岩間であり、それゆえに岩間を発祥の地と考える人は多いと思う。

・結論  白滝での日々は後の開祖の人生、合気道修行に多大な影響を与えた。それは大東流との出会いであり、厳しい自然と闘った開墾の日々である。しかし、合気道に与えた影響については開祖が住んだ他のどの土地についても多かれ少なかれ言えることであって、開祖の人生を合気道家の視点から見たときに「白滝が合気道発祥の地である」ということは自分には言えない。ゆえに、自分は「ゆかりの地」としか言わないし、それは開祖を知る人間なら誰でも同じだと思う。ただ、宣伝文句というのは多少大げさなものである。白滝が合気道発祥の地という人がいるのは仕方がない。ただ、そういう人に会ったときはきちんと説明をするようにしたい。


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