開祖と神社(08/1/24)
- masakatsu03akatsu2
- 2016年3月15日
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開祖は大変信心深かった方として知られている。幼少の頃から加持祈祷に興味を抱き、白滝を離れて後は大本教に入信することで、武術も飛躍的に上達したとされる。また、最後に自身の道場を構えた岩間においては自ら世界唯一の「合気神社」を建立している。今回は開祖と白滝の神社との関わりを考察してみたい。
・白滝の神社
白滝にも開祖ゆかりの神社「上白滝神社」が存在する。この神社は建立の際に開祖が寄附を行ったことで、木札に名前が残されており、今となっては開祖が白滝に残した唯一の足跡である貴重な神社である。平成19年には全国の合気道関係者の大変暖かなご支持もあって、倒壊の危機をまぬがれ、修復工事が行われた。
この上白滝神社が建立されたのは大正8年、開祖が白滝を去った年である。また、この神社の建っている上白滝地区は当時開祖が居を構え、商店街作りに励んでいたとされる二股地区(現 白滝東区)より、3キロ程離れたところにある。開祖が白滝に滞在した8年間の中で、他の地区に神社が建立され、またその際に開祖が携わったことはなかったのだろうか。
白滝村史を参考に明治45年~大正8年に建立された神社をまとめてみると次のようになった。
1.白滝神社(白滝中央区)
大正2年12月建立 天照皇大神 大正6年に大火により消失。現在は西区に建っている。
2.上支湧別神社(上支湧別)
大正3年6月建立 天照皇大神
大正6年大火にあう。現在は別の土地に建っている。
3.御嶽神社(北支湧別)
大正4年4月建立 御嶽大神、豊受稲荷大神、天照皇大神 創立者原田は当時の神主。現在も原田家が神主であり、神社は原田家の敷地内にある。 4.高台神社(天狗平)
大正7年建立
5.下白滝水神社(下白滝)
大正2年春建立 水難の守り神 造材の流送の安泰を願って建てられた。 6.旧白滝神社(旧白滝)
大正2年7月建立 明治天皇、安産の神(大正4年)、木花咲耶比女命(大正4年) 大正4年に移転。2柱を合祀。 7.千蔵華爾(ちとかに)神社(奥白滝) 大正3年建立 明治天皇 昭和44年、白滝神社に合併。 8.支湧別神社(支湧別) 大正5年3月建立 大正6年の大火にあい、移転。 9.北支湧別神社(北支湧別) 大正5年建立 大地御祖神 10.上白滝神社(上白滝) 大正8年5月建立 天照大神、建速須佐之男命、倉稲魂命 大正6年には白滝全土に被害が及んだ大火災が発生しており、それ以前に建立された神社はその被害にあい、当時の社殿はおろか寄付の記録も失われてしまったと思われる。この大火が開祖の足取りをも消してしまった一番の原因でもある。しかし、信心深かった開祖が他地区の神社に携わった可能性は十分に考えられる。 次に地区による考察を行いたい。
白滝に住んでいない方には土地勘がつかめないとは思うが、白滝の地区を簡単に表すと、
上川・・・奥白滝(8)-上白滝(3)-白滝-旧白滝(6)-下白滝(9)・・・遠軽 天狗平(7)/ / / 上支湧別(6)-支湧別(5)-北支湧別(3) ()内は白滝からのおおよそのキロ数
となる。開祖が住んでいたのは白滝地区である。
村史には開祖の名前こそ出てこないものの、二股有志により建立とある白滝神社の建立に開祖が携わった可能性がこれらの中では最も高い。ただ、当時の神社は大火により消失している。
他の地区については少し距離がありすぎるようにも思えるが、上白滝神社の建立の際にも他地区からも寄附を募っていた記録があるので、やはり可能性はある。しかし、これらの神社に開祖が携わったという話は今のところ聞いたことが無い。
次に奉られている神様について注目したい。上白滝神社には開祖が自身の守護神として崇めていた建速須佐之男命(タテハヤスサノオノミコト)が奉られているが、これは村史にも開祖が奉ったものであるとはっきり書いてある。対して、一番建立に携わった可能性のある白滝神社には天照大神だけである。なぜ、開祖は地元白滝の神社ではなく、後になって建てられた上白滝の神社に須佐之男命を奉ったのだろうか。
・開祖と上白滝
開祖と上白滝の関係にはいくつかの疑問点がある。ひとつは神社に奉られている須佐之男命。もうひとつは現在も上白滝に建っている開祖ゆかりの碑である。この碑は神社の斜め向かい、かつて開祖の土地であったとされる土地に建っている。しかし、開祖は主に二股の商店街づくりに関わっていたとされ、なぜ離れた地区に土地を持っていたのかが疑問であった。今まではあちこちに土地を持っていたのだろうと思っていたが、調べてみると開祖と上白滝の関係は思っていたより深いことがわかってきた。
白滝開基の年は開祖ら和歌山紀州団体が入植した年に定められている。それは現・白滝中心部の開拓に入ったからであり、厳密には他の地区にはもう入植者がいた。
遠軽側の旧白滝には開祖が入る18年も前に入植者がいたとされる。この方は先輩として、開祖らにハッカ栽培のノウハウを伝授したとされている。また、上白滝にも開祖らより数年早く入植者がいたらしい。
つまり、遠軽、上川の方が先に開拓の手が入っており、間の白滝が未開の地だったのだ。そして、開祖らも上川方面の峠を越えて白滝に入っている。
村史によると、開祖らの入植した範囲は上白滝から白滝までの広範囲にわたっていたらしい。上白滝に土地があっても全然不思議はなかったのだ。
さて、白滝に来るために峠越えを決行した開祖らだったが、当時はこうした旅人達のために駅ていという休憩所があったらしい。上白滝にも駅ていはあり、その設置は明治26年、開祖らの入植の19年前にもさかのぼる。この駅ていの取扱人として中沢沢治(明治42年没)なる人物が入植した折に来住民・往来人の安全を願って、駅てい近くに天照大神を奉った神籬(ひもろぎ)を建てたとされる。実はこの神籬こそが後の上白滝神社なのだが、開祖が白滝を訪れて初めて接見した神社(神籬)は上白滝にあったということになるのだ。
開祖はやはり自分でも開拓の無事を祈って神社を建てるつもりだったのかもしれない。和歌山から軸物の須佐之男命を持参していたらしい。この軸物を行く末を案じてか、入植の年にこの神籬に合祀したようだ。このために、後に建てられることになる白滝神社には開祖は神様を奉っていないと考えられる。
さて、上白滝の神籬はその後、時の神官・川村照喜が大正4年6月に霊夢を見て、つまり神様のお告げを聞いて現在の土地に移されることとなる。同年11月には祠を建て倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)も合祀された。翌年の9月には仮拝殿が建てられ、大正8年3月には神殿の建築工事が開始、同年5月に現在も残る神殿が完成した。自分の守護神が奉られているこの神社の建立に開祖が黙っているはずが無く、寄附世話係を務め、自らも一円を寄附したことが神社内の木札、寄付者名簿の中に記されている。
こうして上白滝神社と開祖との関係を辿ってみると、大火の後に建てられた物とはいえ、開祖の名前を内に記しながら、今なおこの神社が残っていることは偶然とは思えない。
今までは「なぜ上白滝?」という疑問があったが、上白滝神社は白滝においては最も開祖と当時の開拓者の魂が宿っている神社ではなかろうか。それゆえに不思議な力で守られてきた建物ではないかとも思ってしまう。平成18~19年の保存運動には自分も携わり、その間には色々な問題もあったが、結果的にやはり守られるべくして守られたのだと思う。これからも白滝の一合気道家として、当時の開祖を偲び、神社を大切にしていかなければならないと思った。
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前回「開祖はなぜ白滝に移ったか」を考察し、国のために働きたいと言う思いと生きがいを白滝に見出したのではないかと結論づけた。 事実、開祖は和歌山紀州団体の団体長として、初めて白滝に団体移住しており、その後の活動もめまぐるしく、ついには「白滝王」の称号で呼ばれることにもなる。し...
白滝は開祖が開拓の鍬をふるった土地として知られる「合気道ゆかりの地」の一つである。ほかに開祖が主に活動した土地として挙げられるのは、故郷和歌山の田辺、大本に入信した京都の綾部、戦前に道場を構え修行に打ち込んだ東京、戦後の修行地茨城の岩間などがあるが、他の地区と比べると白滝だ...