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開祖はなぜ白滝を離れたか(09/3/14)

  • masakatsu03akatsu2
  • 2016年3月15日
  • 読了時間: 6分

前回「開祖はなぜ白滝に移ったか」を考察し、国のために働きたいと言う思いと生きがいを白滝に見出したのではないかと結論づけた。

事実、開祖は和歌山紀州団体の団体長として、初めて白滝に団体移住しており、その後の活動もめまぐるしく、ついには「白滝王」の称号で呼ばれることにもなる。しかし、開祖が白滝に滞在したのはたったの8年であった。しかもその理由は父の危篤の知らせを受けたこととされている。なぜ開祖は自ら切り拓いた白滝を後にし、二度と戻って来る事はなかったのか。今回は開祖が白滝を離れた理由について考えたい。

開祖は屯田兵だった友人倉橋に北海道行きを誘われると、何度か北海道を訪れ、北海道全土の下見を行ったようである。白滝を訪れたときには雪に覆われていたようであるが、雪を掘りおこしてまでどんな土地かを調べている。そのときに雪の下にたくましく生えていた雑草を見て、農耕にも有利な土地であると判断。移住を決意する。

白滝での開祖の活躍はめまぐるしいものがあった。最初の3年こそ冷害による不作で開拓は困難を極めたが、救済補償交渉のために方々を駆け回った。また、造材事業、酪農振興、商店街作りや衛星組合設立など多方面に渡って人々の先頭に立ち、ついには白滝王の名称で呼ばれることになる。ちょうど中間の年に当たる大正4年には定住の見通しもたつようになったようである。

大正4年といえば開祖の武道遍歴においても重要な年となる。大東流中興の祖 武田惣角と出会った年である。前もって惣角の噂は耳にしていたようだが、遠軽の旅館でその技術を目にすると、その場で弟子入り、職務も忘れて一ヶ月の間稽古に励んだというのだから、よほど惣角に惹かれたのであろう。その後は何度か惣角を白滝に招いて講習会も行ったようである。かつて東京で商売をしていた折にも道場通いをした開祖のことであるから、白滝開拓の激務の中で大東流の稽古に励むことは、ちょうどいい息抜きになったのかもしれない。

しかし、開祖にとって惣角と付き合っていくことは徐々に負担となっていく。当時の惣角の講習は一週間から10日ほどで、講習料は10円から15円、惣角を招いた開祖は惣角の世話のためにさらに月300円を負担したという(1円は今の2、3000円)。

開祖にとって苦痛となったのは、人のために使うことの出来るお金が惣角ただ一人のために消えていってしまうということだった。開祖と惣角では金銭に対する考え方が違っていたのである。開祖は無欲の人であった。東京を出るときも店を従業員に預けてしまったし、白滝入植の際には父から一万円もの大金を預かるが、それらは他の団員達の交通費や食料、被服代にも当てられたという。世のため、人のために働くことを無償の喜びとする開祖にとっては、お金も人のために使うものであったのではないかと思われる。一方、惣角はお金にうるさかったことで知られている。講習料が高かったのに加えて、一手何円としつこく金の要求をしたといわれている。もちろん、惣角はそれなりのものを教授している自負もあったろうし、生活がかかっているのでお金にうるさくなるのは当然だろう。あまり家に寄りつかなかったとされる惣角だが、妻子もあったので一家の長としての責任感もあったのかもしれない。

しかし、開祖が惣角のために支払ったのは財産だけではなかった。惣角が白滝へやってくると、開祖は惣角の身の回りの一切をしなければならない。つまり時間まで奪われるのである。だが、当初はむしろ開祖がすすんで行ったことだと思われる。師と仰いだ人物をわざわざ呼び寄せたのだから、自ら世話係を買って出るのが礼儀であろう。惣角もそんな開祖の献身ぶりをとても気に入ったようで常に開祖を傍らへ置きたがっていたらしい。ところが、そのうちに惣角は開祖の家に転がり込むようになる。毎日の惣角の世話で開祖はだんだんと自分の仕事ができなくなっていった。開祖は白滝から出た初の上湧別村村会議員をも務めるが、一年足らずでやめている。その背景にも惣角がいたのかもしれない。このことについて、開祖は後にこう語っている。

公務の仕事がいっさいできなくなってしまった、自分は。(惣角は)邪魔ばっかりするんです。先々先々自分の行くとこ邪魔ばっかりするもんやから、それでしまいに自分のうちのようになって入りこんできて、私の権利書から私の印鑑を全部とられてしもうた。(開祖のインタビューテープより)

本当にここまでひどい目に合わされたのかどうかはわからないが、惣角と関わったことで白滝での生活が破綻したことは間違いなさそうだ。開祖は白滝から離れることを考えるようになる。開祖はどうやら故郷田辺に戻り、武道家として生きていくつもりで道場も建てていたようだ。開祖は白滝を去る時にも田辺の道場について語ったらしく、そのことは白滝の方からも聞いたことがある。ちなみにこの話をしてくれた方は、開祖が白滝を捨てて田辺で武道家になろうとしたことで、開祖にいい印象を持っていなかった。

そして大正8年12月、開祖は「チチキトク」の電報を受け取り、これを機に帰郷を決行した。その際にも開祖は惣角に土地を与えている。その後は結局田辺にとどまらす、京都の綾部へ行くことになるのだが、惣角には行き先を告げなかったという。そして、惣角が終生家を持ち続けた白滝には戻って来る事がなかった。

一般に開祖が白滝を離れた理由としては父親の危篤のことしか書かれていない。これは二代道主吉祥丸先生の書かれた「植芝盛平伝」に端を発するものではないかと思う。なぜ、吉祥丸先生は開祖が白滝を去った本当の理由について深く書かれなかったのか、恐らく先生は惣角との確執があらわになることで、大東流との関係が悪化することを恐れられたのかもしれない。先生は惣角の息子の時宗氏とも交流があったからだ。開祖も惣角について悪く言うことはあまりなかったようである。とはいえ、大奥様はよく側近に惣角にひどい目に合わされたと漏らしていたようであり、開祖に近しい人達は開祖と惣角の関係を知っていたと思われる。

自分がこうして意見を述べることは二代道主のご意志に反することだと思う。しかし、大東流と合気道は今では全く別の武道であるし、史実は史実として受け入れるべきだと思う。開祖と惣角の間に実際に何があったのかは知るよしもないが、どんな出来事であろうと後の合気道誕生には欠かせなかった出来事であるだろうからだ。それに歴史というものは見る角度から良くも悪くもなる。大東流から見れば、開祖は惣角を差し置いて合気道で名をはせた生意気な弟子と映るかもしれないし、白滝から見れば無責任に白滝を捨てた男とも映る。しかし、開祖や惣角といった白滝ゆかりの二人の武人の達した境地は変えることができないのである。


 
 
 

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