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開祖はなぜ白滝に移ったか(09/1/18)

白滝は開祖が開拓の鍬をふるった土地として知られる「合気道ゆかりの地」の一つである。ほかに開祖が主に活動した土地として挙げられるのは、故郷和歌山の田辺、大本に入信した京都の綾部、戦前に道場を構え修行に打ち込んだ東京、戦後の修行地茨城の岩間などがあるが、他の地区と比べると白滝だけがあまりに遠い。一体なぜ開祖はわざわざ北海道まで訪れたのだろう。

開祖がなぜ白滝を訪れたか。その動機について知るためには開祖の人生をさかのぼり、開祖の職歴を追っていかなければならないと思う。

開祖は地元田辺では裕福な植芝家の長男として生まれ、大変に可愛がられた。しかし、中学校が肌に合わず、わずか1年で中退すると、そろばん塾に通いだす。そろばんに熱中した開祖は1年足らずで代理教授を任されるまでになった。その後、開祖はそのそろばんの腕を買われて税務署に就職。しかし、税務署員でありながら漁師への課税への反対運動に加わりクビになってしまう。18歳になった開祖は独立するため上京を決意した。

東京で商売を始めた開祖は住み込み奉公から始まって一年もしないうちに「植芝商会」という文房具店をかまえるに至る。しかし、脚気にかかったことで自分には商売は不向きと悟り、店を従業員に預けて帰郷した。故郷では療養しながら開祖は自分の道を模索することになる。

植芝家を継いで欲しいと願う親とは裏腹に、開祖はあくまで自分の力を試してみたかったようである。開祖が商業の次に目を向けたのは軍隊であった。当時は日露戦争勃発直前であり、開祖は国のために自分の力を生かしたかったのである。一度は身長の低さにより検査に不合格となった開祖だが、その後修行に修行を重ねてとうとう入隊を許される。この軍隊生活はよほど性に合っていたようで、開祖はどんどんと出世していくが、そのあまりの強さのためにかえって戦場に出ることはなく初年兵教育を命ぜられた。しかし、開祖は戦うために軍人になったのである。開祖は何度も上層部に懇願してやっと戦場に赴くことができたが、父与六の反対にあって軍を除隊することになってしまう。私の知る限りでは与六が息子の生き方に反対をしたのはこのときだけである。大事な跡取り息子を命の危険にさらさせたくなかったのだろう。

再び田辺に戻った開祖はまたも道を見失い、情緒不安定に陥る。税務署員と上京は失敗。天職と思われた軍人は父の反対にあう。一体自分は何をするために生まれてきたのかと相当思い悩んだに違いない。見かねた与六は息子のために道場を建て、柔道の先生を家に呼び、開祖は気を紛らわせるように柔道に打ち込むようになる。さらにこの頃、開祖は「神社合祀策」への反対運動に参加している。この合祀策は一定の地域において数多く存在する神社を統合整理するという、きわめて政治色の強い政策であり、人一倍信心深い開祖がこの政策に対して黙っているはずが無かったのだが、この運動は有り余るエネルギーを発散させる舞台ともなったのではないだろうか。そして、開祖の努力もあって田辺地域においてはわずかに六社の合祀にとどまったという。しかし、この運動は一時のものに過ぎず、その後の開祖の道のりを決めるものではなかった。開祖の苦悩は続いたのである。

そんなときに屯田兵として北海道開拓に従事していた友人倉橋伝三郎が帰郷する。開祖は倉橋の話を聞いて未開の地を開拓するという大いなる挑戦に心を揺り動かされた。そこへさらに北海道庁から未開拓地への団結移住計画のすすめが公布され、開祖は地元の仲間を募って自ら団長として白滝へ赴くことになる。では、開祖が北海道入りを決意したのは単に自分の力を試すためだったのだろうか。

先に述べたように、開祖は国のために戦うために軍人となっている。しかし、これは望みがかなわぬまま挫折せざるを得なくなった。だが、その後の神社合祀策反対運動については、開祖は当時を振り返って「生まれて初めて国事に奔走しとるのじゃという欣快を味わったものじゃ」と語ったという(植芝盛平伝)。さらに「盛平伝」によると開祖は北海道入りについて、日露戦争後の食糧問題を憂いて「ここは一つ世のため、国のため、人のため、一肌脱いでやろうと決意を固めたのじゃ」と語っている。開祖にとって国のために働くことはこの上ない喜びであったと考えられる。後に創始する合気道の理念が世界平和であるのもそのためであろう。

また、昭和42年頃に行われた白滝村史編さん委員のインタビューに対しても「国のため、天皇陛下のため」という表現が見られる。開祖は国に貢献するために北海道の一地区には過ぎないが白滝原野を開拓することを選択したのだろう。やっと見つけた生きがいに対する意欲は並々ならぬものだったと思われる。まだ若かった開祖に欲や野心がなかったとは言い切れないだろうが、自分のためよりは人のため、国のために働き、白滝だけではなく北海道全てを任されたような気概をもって開拓に励んだのである。移住団員の中には北海道で一山当てて、故郷に錦を飾ろうとしたものも少なくなかったようで、団長としての気苦労も絶えなかったようだが、それでもこの事業をやり通そうとしたのだと思う。開祖の足をはるか北の地、白滝にまで向けさせたのは世のために働きたいという強い情熱があったからだと思う。そうでなければ、あまりに環境の違いすぎる白滝に身をおく覚悟はどこから来るだろうか。

しかし、開祖はやっと見つけた開拓という国事をわずか8年でやめてしまう。一体そこには何があったのか。この謎については後に考察する。


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